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長野便教会の発足のごあいさつ


 春まだ浅い信濃路より~長野便教会の発足のごあいさつ~

 私が、このトイレ掃除と出会ったのは平成6年の秋のことです。ある朝、起きてすぐにテレビをつけると、NHKのニュースの中で、便器に素手をつっこんでニコニコしているおじさんがいるではありませんか。それが鍵山秀三郎先生だったのです。
 当時の私は、勤務していた学校で清掃主任を任されておりました。長野県の小中学校では「清掃中は無言で集中してやりなさい」とか「ぞうきんは膝をついて3回がけしなさい」といった指導をするのですが、現実は生徒の私語は止まらないし、それを注意する先生の怒鳴り声が聞こえることもあります。また、私が校内をまわっていくと、生徒ばかりか先生までもが「ほら、太田先生が来たから早くやれ」と生徒に指導するのを目の当たりにし、愕然としました。この清掃の状態から何とか脱却したい。でもその具体的な方策が見つからない。そんな悶々とした日々を送っておりましたので、鍵山先生の笑顔を見たときに、「これだ!この人の掃除の中に、何かヒントがあるに違いない」と直感的に思いました。そこから私の「掃除道」の追究が始まったのです。
 私は、「怒られるのが嫌だからやる」「掃除の時間だから仕方なくやる」といった、外発的で受動的な「やらされる掃除」ではきれいにならないばかりか、気持ちよく終われないと思うのです。先の小布施の学ぶ会でも「普段なら15分でも飽きちゃうのに、もう1時間も経っちゃったの?」という中学生の声があったように、生徒が内発的で主体的に「やる掃除」になれば、時間も忘れてのめり込んでいる自分に爽快感や自信がもてるはずです。そうなってこそ本物の掃除だと思うのです。「やらせる・やらされる」掃除からの脱却~ それは「日々の掃除をどう指導するのか」といった単なる方法論として語られるのではなく、生徒を「自分の人生の主人公」として内発的で主体的な行動ができる人間に日々育てているのか、教師の意識のあり方が問われる場面なのではないでしょうか。そう
考えると「掃除」を通して、生徒の意識を耕すことはもちろんですが、むしろ「生徒をどう育てるのか」教師が自分自身の意識を耕し、お互いに学びあっていく必要があると思うのです。
 産声を上げたばかりの「長野便教会」ですが、これからも「ひとつ拾えばひとつだけきれいになる」の精神で歩んでまいりたいと思います。
今後ともよろしくお願い致します。
平成18年3月吉日
 長野便教会 太田智明